想いの記 ─住職の本音・本心・本気─ 托鉢で始めたお寺です。皆さんと共に「この世の幸せとあの世の安心」のために、学び、実践しましょう。

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ほんのひとこと 01:01
 
マル秘当ブログでは、皆さんのためになればと考えて体験した事例をご紹介する場合、ご了解をいただかない限り、特定の方に起こった特定のできごとであると判らぬよう、内容を変えるなど細心の注意をはらって文章化しており、決してプライバシーの侵害はいたしませんので、ご安心ください。楽しい
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信心とは (その2) 07:23
 以前、「信心とは」という稿を書きました。
 そのおりに、何かに没頭すると、亡くなった方や観音様に会うなどの非日常的な体験をする場合がありますが、それは「そういうこともある」という程度の受け止め方でとどめておかないと危険であると指摘しました。
 スピリチュアルブーム、カルト宗教やカルト集団の跋扈、明らかに付け焼き刃と思われる瞑想法の蔓延、こうしたものの危険性は日々、高まっていると感じられます。
 いかにも優しげで、どこかにこだわりと確信を隠し持ち、それでいて微妙に社会とずれており、言葉がはっきりしているわりには非現実性がまといつき、表面の明るさと裏腹に存在感が希薄で、何となく頼りない、こうした方々が実に多くなりました。
 彷徨っておられるのではないでしょうか。

 彷徨った結果たどりつく姿として最も恐ろしいのが、「〜の気がする」を「〜だ」と実体的に判断するクセがついてしまい、ついには虚実の判断、ひいては善悪の判断をも誤ってしまうケースです。
 自分のあらゆる体験が絶対性を持つという姿勢は、自分を狭い場所へ追いやりますが、本人は気づきません。
 むしろ、常人には体験できない高く広い次元に出入りしているという優越感を持つようになり、自分の言葉を神の言葉のように自分で尊び、誇らしげに〈お告げ〉を行ったり、あるいは頼まれてもいない忠告をしたりといった行動に陥るケースも少なくありません。
 こうした心性を巧みに利用して信者を増やす新興宗教や、宗教でないという仮面をつけて会員を増やす集団もあり、常識と良識を兼ねそなえた社会人としての資格を奪われる人々が発生していることは大きな問題です。

 呼吸の仕方を普段とは変えて瞑想を行い、日常的にはたらいている感覚と違う部分を動かせば、心は当然、忙しく動き回っている時とは異なった〈状態〉になります。
 千年の単位で伝えられ、深められ、確認されてきた方法をきちんと踏襲すれば、その〈状態〉は入り口であることが解るので、非日常的な体験が一時的な幻であると判断して迷わされずに進めます。
 しかし、思いつきであちらこちらから集めてきた材料を組み合わせた付け焼き刃の教義では、危険性の認識も、そしてそこを超えて行く方法も危ういのではないでしょうか。
 なぜなら、伝統的な瞑想は、入り口から出口までが一貫した方法として完成されており、危険でなく、目的へ到達できる〈脇道〉はあり得ないからです。
 超人的な行者たちが途方もない年月をかけて組み上げた〈方法〉をあちこちから寄せ集め、便利に利用するという姿勢で、伝統的体系を超えた安全で確かな心の訓練法を構築するなど、あり得ないと考えるのが道理ではないでしょうか。

 ここに「勝手な瞑想は魔境(マキョウ)へ陥ってはならない」という戒めの根拠があります。
 オウム真理教が陥った典型です。

 まっとうな宗教は必ず万人に通じる道理をふまえています。
 かつて、世界的数学者岡潔博士は大乗仏教最奥の経典とされる「華厳経(ケゴンキョウ)」をつぶさに学び、「一つの矛盾もない」と断じました。
 まっとうな宗教は魔境を魔境と断じ、「惑わされずにそこを通り過ぎなければならない」と指導します。
 決して魔境に入った人をもてはやしたり、放置したりして利用しません。
 正しく訓練された心はクリアになり、その心から流れ出る言葉は常識と良識のフィルターを難なく通り、誰とでも違和感なく通じます。
 もちろん、因習やタブーなどとずれる場合はありますが、道理を尺度としてとことん話をすれば、お互いが受け容れるかどうかは別として、理解されないはずはありません。

 どの宗教も「良いこと」を掲げ、「似たような主張」を行います。
 しかし、いかなる方法で、いかなる心が作られるか、ここが問題です。
 怪しい集団であるかどうかのチェックポイントは各方面から指摘されており、ぜひ、認識していただきたいと願っています。
 たとえば、やめようとする人を強く引き留めないか。
 また、他の宗教を否定したり、特定の宗教を敵としていないか。
 また、周囲の人々や社会との断絶を招いていないか。
 また、教祖が広く一般の人々と交わっているか。

 こうした面が見られたならば、一歩退いて客観的にその集団を眺め、周囲の人々の目にどう映っているかを聞いてみてはいかがでしょうか。

 まっとうな方法でまっとうな心が作られればどうなるか。
 もう一度、お大師様の教えを書いておきましょう。

1 澄浄(チョウジョウ)の義………澄んで清らかになる。

2 決定(ケツジョウ)の義…………定まり揺るがなくなる。

3 歓喜(カンギ)の義………………歓びにあふれる。

4 無厭(ムエン)の義………………飽きず怠けなくなる。

5 随喜(ズイキ)の義………………善行へ素直に共感するようになる。

6 尊重(ソンチョウ)の義…………価値あるものを素直に尊重するようになる。

7 随順(ズイジュン)の義…………気高い対象へ素直に従うようになる。

8 讃歎(サンタン)の義……………気高い対象を素直に誉め称えるようになる。

9 不壊(フエ)の義 …………………心の柱が揺るがないようになる。

10 愛楽(アイギョウ)の義 …………他へ「良かれ」と願うようになる。


 このような心をこそ、目ざそうではありませんか。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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| 【解説】この世の幸せ | - | - | posted by 住職 遠藤龍地
NHK文化講座「生活と仏法」講義録 44 ―五戒─ 06:30
 前回までに「穢れて生きる人」と「清らかに生きる人」について学びました。
 釈尊は、次いで、不殺生(フセッショウ)などの「五戒」を明らかにされました。
 この戒律は、今でもご葬儀において、引導を渡す前に戒名と共にお授けするとても重要なものです。
 
 3月10日、NHK文化講座で共に学んだ『法句経(ダンマパダ)』の「塵垢品(ジンクホン)第二十六」です。

「愚人(グニン)は殺(セツ)を好み、言(コトバ)に誠実(ジョウジツ)無く、与えざるを取り、好んで人の婦(フ)を犯し、心を逞しくして戒を犯し、酒に迷惑す。
 斯(コノ)人世世(ヨヨ)に、自ら身の本(モト)を掘る」


(愚か者はむやみに生きものを殺し、言葉にまことがなく、自分へ与えられていないものを奪い取り、好んで邪淫を行い、心を恣(ホシイママ)にして戒律を犯し、酒を呑んでは迷い惑う。
 このような者は、いつの世にも人間として生きるための根本を破壊する)

「人如(モ)し是(コレ)を覚らば、当(マサ)に悪を念ずべからず。
 愚なれば非法に近づき、久しく自ら焼没(ショウモツ)す」


(これを覚ったならば、悪しきことを心に抱いてはならない。
 愚かであっては真実の生き方から離れて放逸になり、自分を永久に苦の火で焼き滅ぼすであろう)

 前の句は、「不殺生(フセッショウ)、不偸盗(フチュウトウ)、不邪淫(フジャイン)、不妄語(フモウゴ)、不飲酒(フオンジュ)」の五戒になっています。
 最後に「酒に呑まれてはならない」と説かれているのは、それが「不綺語(フキゴ)、不悪口(フアック)、不両舌(フリョウゼツ)、不慳貪(フケンドン)、不瞋恚(フシンニ)、不邪見(フジャケン)」という十善戒における残りの6つを犯してしまいがちだからです。
 酔っぱらった様子を想像してみましょう。
 不要な飾り言葉を用いたり、粗暴な言葉づかいになったり、仲違いさせるような話をしたり、潰れるまで杯を離さなかったり、勝手に怒り出したり、つまらぬ考えに陥ったりはしないでしょうか。
 また、呑んでバカなことをやったばかりに一生を棒に振る場合すらあります。
 ある恩師が学歴も頭脳も授業の緻密さも、そして淡々と続ける講義の雰囲気も抜群で、「どうして年齢に不足ないこれほど優秀な方が校長先生にならないのだろう」と不思議に思ったことがありました。
 後に漏れ聞いたところによると、昔、先生は「無礼講」とされた宴会で校長か教育長に馬乗りになり、「はいしどうどう」をやったそうです。
 もちろん、出世が最高の価値とは言えませんが、酒は実に、迷惑させるものであると心得ておく必要があります。
「父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)」も、こんなふうに説いています。
「いかに衣食住に満たされた暮らしをさせたとしても、仏法に帰依させない限り本当の親孝行ではない。
 もしも親が酒に呑まれて愚かしいことを行ったならば、すべてを失わせてしまうではないか」

 ところで「身の本(モト)を掘る」とは恐ろしい言葉です。
 人間として依って立つところのものを掘り崩してしまうというのですから、凄まじいイメージです。
 人間が人間として生きるためには、自分を自分でコントロールせねばなりまません。
 放逸なままでは、心も体も二本足できちんと立ってはいられなくなるのです。
 酔いつぶれて足を取られ、何を言っているのか解らない状態を想像してみれば、「そのままで生きられない」ことは明らかです。

 後の句もまた衝撃的な表現で放逸を戒めています。
 自分を永久に「焼没(ショウモツ)」させるとは何という恐ろしい指摘でしょうか。
 それはまるで速水御舟(ハヤミギョシュウ)の傑作「炎舞」における蝶のようです。
 心して生きましょう。

〈山種美術館さんの「作品紹介」からお借りしました〉
collection_11.jpg




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| 【解説】この世の幸せ | - | - | posted by 住職 遠藤龍地
例祭だより(3月の第一例祭) 15:41
 3月になりました。
まだまだ寒い日が続いていますが、たとえ0〜1℃でも真冬の寒さとどこか違ってあまり寒く感じないのが不思議です。お日様が高くなったからでしょうか・・・。
 お寺の玄関ホールとお手洗いに飾ってある”アイビー”から新芽がでてきましたよ。
 あまり日光があたらない場所にあっても毎年新芽が出てくるので感心してしまいます。植物ってすごいですね。*v*

 先日は3月の第一例祭でした。
 護摩も高く燃え上がり、丹野さんの太鼓もとっても力強く響き渡りました!

 月の初めの例祭はご供養のために皆さんにお焼香もしていただきます。
 この冬もたくさんの方があの世に旅たたれ、住職は懸命に送られました。
 きっと、みなさん安心の天国から私達を見守ってくださっていることでしょう。

 例祭の後は、奥さん特製の美味しい温麺(心身にやさしく沁み入ります☆)をいただきながら皆さんで歓談です。
 Aさんがいいました。
「春の気配がしてくるとなんだかSさんがひょっこりと姿を見せそうだね〜」
 ほんとにそんな感じがします。

 亡くなってしまうと、その方の体が無くなっちゃうんですから姿を見ることも触れることも、声を聞くことも出来なくて、この世の私達は淋しくてしょうがないですよね;;;
でも夢に出てきてくれたり、日々なにかしらのメッセージをくれたり、時が経ってくるとなんだか頭の上のでいつも見守ってくれてるような感じもします。
 家族や仲間でその方の思い出話をしたり、悲しみを共有するとほっとしてくるものです。
 無縁死の方が非常に多く、住職はその方達の為にもいろいろ奔走され、埋葬できる五輪の塔も設けています。
 どんな方にも安心してあの世にいて欲しいと願うばかりです。

 もうすぐ春彼岸・・・
 だんだんあたたかくなってきますね♪
 この極寒の冬を外で越した三毛猫の「ミケ子」が最近ずっとニャーニャー鳴いています。
 中にいるクロちゃんには少々ストレスのようですが;



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| 職員だより | - | - | posted by 住職 遠藤龍地
ナイジェリアの惨劇 08:51
 読売新聞は報じました。

【ヨハネスブルク=中西賢司】西アフリカ、ナイジェリアの中部ジョス近郊で7日に起きたイスラム教徒とキリスト教徒の衝突で、AFP通信は8日、政府当局者の話として、犠牲者が少なくとも500人に達したと報じた。
 イスラム教徒の武装集団が7日未明、ジョス郊外にあるキリスト教徒の村を奇襲。逃げまどう住民をナタで襲い、家屋や車に放火したという。ジョスでは1月、キリスト教徒がイスラム教徒を襲撃したことが発端で混乱が拡大し、300人以上が死亡。地元紙は今回の襲撃はイスラム教徒による報復との見方を伝えている。


 神の命令で異教徒を滅ぼす十字軍的発想が今でも生きていることに戦慄を覚えます。
 500人という数は、一緒に高校を卒業生した仲間全員よりも、当山のある集落に住む住民全員よりも多いのです。
 経典が変わらない以上、実践の姿勢も変わりにくいのでしょうか。

 問題はただ一つ、「排他性」です。
 私たちのまわりにあり、私たちの心にも潜む「排他的姿勢」というものの恐ろしさをよく考えてみたいものです。

〈寒風の下で陽光を浴びる福寿草です。こうして一緒に咲けないものでしょうか。
 ※この写真は「無料写真素材フォトココ」さんからお借りして手を加えました〉
hukujusou09.jpg



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| 【解説】この世の幸せ | - | - | posted by 住職 遠藤龍地
『四十二章経』第二十一章 ─縛るもの 06:19
 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、3年半かけて学び通す予定です。

 2月22日に学んだテーマは、「縛るもの」です。

「仏の言(ノタマ)わく、『人の妻子宝宅の患(ウレイ)に繋(シバ)らるるは、牢獄、桎梏(シッコク)、鋃鐺(ロウトウ)よりも甚だし。
 牢獄には原赦(ゲンシャ)あり、妻子の情欲は、虎口(コク)の禍(ワザワイ)有りと雖(イエド)も、己(オノレ)は猶(ナオ)、甘心(カンシン)もて焉(コレ)に投ず。
 其(ソ)の罪赦(ユル)さるること無し』」


 釈尊は説かれました。
「人が、家族や財産などについての心配ごとに縛られる力は、牢獄や手かせ足かせや鎖などによる束縛よりも甚だしい。
 牢獄に入っていても赦免される時がある。
 しかし、家族についての執着心は、虎の口元へ行くような身を滅ぼす危険性があってもなお、気持に任せてそこでの日常生活に甘んじさせる。
 その罪は、牢獄から赦免されるように許されることなく、生涯、負わねばならない」

 この経典の第一章は「家族から離れて出家し、仏道を歩む者を名づけて出家修行者という」から始まっており、経典が悟りを開こうとする人のために書かれたものであることを再確認しておく必要があります。
 そうすると、この教えは、せっかく一念発起して修行の道へ入ったのに、家族への未練が断ち切れずに修行に没頭できない弟子への戒めであることが理解されます。
 家族が罪を引き起こす元凶であるというのではなく、出家という決心が嘘になってしまってはならないと厳しく説かれました。
 これまで何度も書いたとおり、釈尊の時代には、まだ仏法は広く知られておらず、家族やなりわいといった日常生活を離れて修行せねば会得する方法がないので、出家が仏道を歩む唯一の方法だったのです。

 それではこうした教えを私たちはどう受けとめれば良いのか?
 それは、「家族というぬるま湯に浸かったきりで人生の大事にちきんと対峙しなければ、人間本来の尊い生き方はできない」ということになるのではないでしょうか。

 最近、人道的仕事へ投じたお二人との出会いがありました。
 一人は、修行を経て大きな神社の神主になりながら、路上生活者の方々を見捨てておけず、立場を捨てて直接手を差しのべる仕事を始められた方です。
 家族を抱えて確たる収入源を手放し、イバラの道へ踏み入るにはよほどの覚悟と周囲の理解が必要だったことでしょう。
 もう一人は、一族が公務員の環境で生まれ育ちながら、裸の自分をかけて生きる生き方を求め、大企業の社員という立場を捨てて彷徨った結果、実業家になった方です。
 人生への疑問を離れず、意識が朦朧となるほど身体を酷使する職業に就き、何もないところから立ち上がった真摯さには脱帽しました。

「自分はこれで良いのか?」「このままで、本当に人生に納得できるか?」といった根元的疑問こそ、霊性を高める生き方へのきっかけです。
 それはたった一人で解くしかない難問です。
 しかし、孤独な探求者には、必ず家族の情といったものとは異質の深い人間的絆が生まれるものです。
 釈尊もお大師様も、一族の願いを無視してぬるま湯から飛び出し、結果的には一族の誇りとなる存在になられました。
 18歳のミケランジェロは、バックだったロレンツォ・デ・メディチの死をきっかけに、何不自由ない宮殿から離れてサント・スピリト修道院へ入りました。
 しかし、そこで当時許されていなかった死体の解剖を行い、芸術に一段と磨きをかけ、やがてはローマ教皇から墓所を所望されるほどになりました。

 もちろん、家族を離れることそのものに価値があるのではありません。
 家族との絆を保ったままで自分自身の疑問と対峙する方法はいくらでもあります。
 大切なのは、「まあ、いいか」と脇へ置き忘れてしまわないことです。

 一つの疑問が解ければまた新たな疑問が生まれます。
 科学者なら研究心、芸術家なら工夫、こうしたものは生涯尽きないことでしょう。
 私たちもまた「?」に導かれつつ、一歩一歩階段を上りつつ、肉体の耐用年数が尽きる時を迎えます。
 しかし、それで終わりにはなりません。
 いつの日か、現世で積んだ善業と悪業を原因とする新たな生が始まります。
 私たちの歩みは、必ず、新たな生へと引き継がれます。
 それは、私たちが〈自分〉という特定の存在としてこの世に生まれた原因は過去にしかないことを観れば明らかです。
 過去世に何者かであったればこそ、この世に何者かとして生まれたのです。
「過去の誰々が今の誰々である」などと無責任な放言を行って喜ばれている人々もいますが、仏法はそうした特定の実体的存在を認めるのではありません。
 いわば、「現在には過去という原因がある」、「人は死んでも生きた痕跡はなくならない」という道理を説くものです。

 さて、惰性に縛られず、疑問によって新鮮な世界を開きつつ、死ぬまで生きましょうか。



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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| 【解説】この世の幸せ | - | - | posted by 住職 遠藤龍地
瞑想界を行いました 06:26
 3月7日、瞑想会を行いました。
 
 私たちの心は、心相続(シンソウゾク)という連続した状態になっており、死ぬまでの間、瞬時もとぎれません。
 一瞬一瞬にさまざまなものが浮かんで心相続が形成され、私たちの人生は、ここに浮かび上がるものとそれへの対応によって創られてゆきます。
 つまり、自分がいかなる人生を歩むかは、〈心を作る材料とその用い方〉によって決まります。

 さて、材料は日々いかなる環境で、何に興味を持ち、何に心を揺さぶられて生きるかによって集められます。
 たとえばカレーに深い関心があれば、カレーに関する本を読み、食べ歩き、自分でも作りますが、こうした体験がどんどん深い意識にたまれば、つながった心の一瞬にカレー関係のものが数多く浮かび上がるようになります。
 対応は、考え方により、性格により、その人その人です。
 食べ歩きやおしゃべりまでの行動で過ごす方もあれば、研究熱心のあまり本場インドへ行く方や屋を始める方もおられることでしょう。

 もしも暴力やセックスに強い関心を持っていれば、そうしたもの関する物語や映画や場面をについての情報がどんど溜まり、どんどん心相続の瞬間に浮かび上がります。
 見えるものや聞こえるものの中からそうした方面のものを知らぬ間に選び取って、自分で暴力やセックスに囲まれた環境を作りもします。
 穏やかでゆとりのある対応によってそうした傾向が若い日の一時期で過ぎ去る方もあれば、社会的不遇などによって暗い執着心が高まり、人間関係の破綻や事件といった結果をもたらす場合も出てきます。
 材料の偏りと対応方法の過ちが犯罪者のレベルにまで達した場合は、その矯正は生やさしくありません。

 当山の瞑想は、心相続から悪しきものをそぎ落とすというよりも、積極的に心へ善きものを溜めることによって心相続の内容を変えようとするものです。
 だから、必ず明確なイメージで心相続を覆います。
 ポンポンと出てくるものに任せはしません。
 たとえば「浄化呼吸法」では、吐く息へ悪しき思いや汚れた感情や疲れなどを乗せ、口から外界へゆるゆると確実に出して雲散霧消させます。
 吸う息から宇宙のエネルギーをもらい、丹田を満たしてから不調な部分へと廻して回復をはかります。
 じっと坐っている間中行われる観想は浄化と救済に関するイメージを深め、呼吸法の実践を離れた後も、そうしたイメージを伴ったものが心相続へ浮かび上がる機会を増やします。

 また、忙しく動いている時は胸で呼吸を行い、そうした身体のはたらかせ方に応じた思考や感情を引き出していますが、強制的に行う呼吸法にあっては、当然、思考や感情が異なった状態になります。
 この体験が、見るものや聞くものによって右往左往させられていてはなかなかはたらきにくい発想や直感やひらめきなどをもたらし、心相続の材料への対応も当然変わります。

 このようにして〈心を作る材料とその用い方〉を変え、善きイメージに導かれた善業(ゼンゴウ)を積む生き方を目ざすのが瞑想法の目的です。
 最初に浄化呼吸法でこの仕組みを納得できれば、息を数える「息数観(スソクカン)」へ移り、阿の字を唱え、聞くことによって阿字と一体になる「阿息観(アソクカン)」へ進みます。
 善業を積む生き方の究極は即身成仏(ソクシンジョウブツ)です。
 み仏の心を発揮しながら八百屋さんやパン屋さんや郵便局員をやっていただきたいと願いつつ、瞑想会を行っています。

220308 006
 

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| お知らせ | - | - | posted by 住職 遠藤龍地
『大日経』が説く心のありさま六十景 その1「貪心」 07:22
 心のありさまを説く究極の経典が『大日経』です。
 この経典は、若き日のお大師様が最高の教えを求めて祈ったおりに、夢で会った行者からその存在を教えられて探し当てたものです。
 正当な伝授がなければ解釈し得ない経典にぶつかったお大師様は海を渡り、『大日経』はもちろん、ついには密教のすべてを会得して帰国しました。

『大日経』には、仏法が密教へとジャンプする重要な指摘があります。

「最高の智慧とは、悟りを求める心を原因とし、大いなる思いやりを根とし、実践を究極的なのものとする」


 それまでの仏法においては、悟りを求めることが究極的なものでしたが、大日経ではその先が説かれています。
 思いやりが根底にあって悟りを求めれば、具体的な思いやりの実践方法つまり真実の生き方が智慧によって明らかにされるというのです。

 さらに教えは根底へと深まります。

「悟りを求める心とは、自らの心をありのままにことごとく知ることである」


 悟りはどこか遠いみ仏の国にあるのではなく、み仏の子である私たち一人一人の心の中にあるのです。
 だから、悟りは遠くへ求める必要がありません。
〈本来み仏の子〉である私たちの真姿そのもので生きることが、この身このままでみ仏に成る、つまり、最高の生き方です。
 お大師様は、般若心経を解き明かし、説かれました。

「仏法の説く真実世界はどこか遠くにあるのではない。
 心の中にあり、最も近いのである」


 こうした『大日経』は、悟る前の私たちの心模様を60に分けて詳しく示しました。
 その指摘を一つづつたどり、まずは、揺れ動く私たちの心のありさまをきちんと省みることにしましょう。

1 貪心(トンシン)
 眼前に広がる現象世界のさまざまなものへ執着し、「もっと、もっと」と貪る心です。
「心を染めるものに従ってしまう」のです。

 私たちは、立派な家や裕福な生活に憧れ、日々、雨風をしのぎ、モノを口へ入れながら寝起きできている事実への感謝を忘れてしまいがちではないでしょうか。
 財欲・名誉欲・性欲・食欲など、どれにしても、ほどほどのところで「これが自分の分相応」と止めることはなかなか難しいものです。
 私は、一軒づつ訪れる托鉢を行い、あばら屋に住みながら仏神への感謝を忘れない清らかな方々の存在を知りました。
 今にも崩れそうな小さな家で、いざりながら玄関へ出てこられた老婦の震える手から感謝の言葉と共に差し出された一枚のお札は何と神々しかったことでしょう。
 無一文からふらつかずに立ち上がられたのも、畳一畳あればそれで良いと感謝しつつ暮らしてこられたのも、こうした方々とのふれあいが無関係ではありません。
 托鉢で出会った方々への感謝はいつまで経っても薄れません。 
 
 ネルソン・マンデラ大統領は、映画『インビクタス/負けざる者たち』の最後で、ナマの人生に裏打ちされた言葉を発します。

「私はいかなる神であれ感謝する。
 私は敗れざる心で私の魂を制してきた。
 私は運命の主人公だった」


 彼は、27年にもわたる投獄生活にありながら、目にするものや耳にするものに打ちのめされることなく霊性を高く保ち、志を堅固にし、神へ感謝し、ついには自分の人生を破壊したと思えるような相手を許す心へと到達しました。
 自分が大統領という究極の権力者になった時、自分が与えられなかった自由や、思いやりや、誇りをこれまでの圧制者たちへ与えるという形で「赦し」を実践し、国民の意識を変え、国を変えました。
 彼が狭い独房、粗末な食事、屈辱的な仕打ちといった環境に押しつぶされず、憎しみを育てなかったことに、「環境世界に染められない心」の典型を観られるのではないでしょうか。
 その尊さ気高さなくして国の再生はなかったことでしょう。

 彼は、自分が自分の運命の主人公であると強く確信しつつも、神への感謝を忘れません。
 あくまでも我(ガ)が主人公ではないのです。
 ここに、神によって運命を創られるという考え方と、自由意志によって運命を創るという考え方の高い昇華があります。
「世界一」を勝ち取り奇跡に近い偉業をなしとげたラグビーチーム「スプリングボクス」の選手たちは勝利の直後、神へ感謝の祈りを捧げてから快哉の雄叫びを上げました。
 ギリギリのところで果たす宗教の役割を深く考えさせられる場面でした。

 私たちが般若心経を唱え、その中で「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじ そわか」と悟りへ至る真言を唱えるのは、まず、目に見え、耳に聞こえるものたちがすべて因と縁によって一時的に存在しているだけの空(クウ)なるものであるという視点・感覚を持つためです。
 たとえ一言一句がすべて理解できなくとも、唱え、耳から聴き、書き、目で見ることによって心が動きます。
 そうしている時、私たちは〈本来み仏の子〉である私たちの真姿そのもので生きています。
 この体験をくりかえし、貪心を離れたいものです。

 

「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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| 【解説】この世の幸せ | - | - | posted by 住職 遠藤龍地
小幡欣治氏 07:24
 第十三回鶴屋南北戯曲賞を受賞した小幡欣治氏(81歳)が言った。

「枯淡の境地なんてあり得ない。切れば血の出るようのなものを書く」


 仕事師とはこういうものだろう。
 
 今、小幡欣治氏は、戦時下を舞台にした作品などに仕事を集中させている。

「若い人に伝える義務がある」


 真実を作品にしておけば、必ず世代を超えた共鳴が得られるとの確信があるのだろう。
 受賞作となった「神戸北ホテル」は、劇団民芸の発表によれば、以下の内容である。

「戦時下の神戸を舞台に、恋のすれ違いを描く、笑いあり涙ありの大人の喜劇。
昭和16年、歯科医で川柳作家の仁野六助は自作の川柳が治安維持法に触れ、検挙される。東京に妻子を残し、ひとり追われて行き着いた先は神戸、その名も北ホテル。しゃれた名前とはうらはらに、闇屋、行商人、打ち捨てられた外国人たちが投宿するさまは、ハキダメのよう。とはいえいっときは気ままな独身生活を謳歌するはずだったが、そんな矢先、かつての恋人、大関うららが仁野の離婚のうわさをたよりに郷里の長崎・福江島から飛び出してくる。恐れをなす仁野を尻目に、うららは看護婦の仕事を見つけて神戸に居座ってしまう。やがて戦局は過酷さを増し、うららの身にも大きな転機が迫ってくるのだった……。」


 戦後生まれの人間は「戦時下」と聞いてもピンとこない。
 しかし、空襲に遭った小幡欣治氏(当時16歳)の「なぜこんな時代に生きているのか」という嘆きは、充分に、今を生きる私たちにも通じる。
 それは時代を観、人間を観る人にとっては、いついかなる時代にあっても避けられない問いであり、嘆きだからである。
 私は小幡欣治氏の舞台に接したことがない。
 しかし、舞台は、人間にとって不変で普遍的である心の出発点を示しているのではないかと思う。

 この問題意識は決して枯れない。
 だから、小幡欣治氏の作品は必ず「切れば血の出る」ようなものになるのだろう。
 当山の法務も「切れば血の出る」ようなものでありたい。



「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

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