想いの記 ─住職の本音・本心・本気─ 托鉢で始めたお寺です。皆さんと共に「この世の幸せとあの世の安心」のために、学び、実践しましょう。

| CALENDAR | RECOMMEND | ENTRY | COMMENT | TRACKBACK | CATEGORY | ARCHIVE | LINK | PROFILE |
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ ─私たちへ確かさを問う花─ 07:32

20130724000012.jpg

 大正12年(1923年)、木下利玄は詠んだ。

牡丹花(ボタンカ)は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」


 牡丹の花は華やかさと重量感で観る者を圧倒する。
 花というものは、いったい、これ以上の咲きようがあろうか、とも思わせる。
 福寿草も、水仙も、梅も、桜も、同じく〈花〉であり、それぞれが、完結した存在として咲く。
 牡丹もまた、そうした意味では、まったくの横並びであるはずなのに、他の花々とはどこかが違う。
 ヒマワリも、バラも、大きくて華やかだ。
 しかし、牡丹は、どこか違う。

 すっとそんなふうに思っていたが、この句に出会い、違いの理由がわかった。
 そこに、そのように在る、というありようを決める要素は、色や形や高さや傾きなどさまざまだが、「位置」という点において、牡丹は、一頭地をぬきんでている。
 自分は気ままに歩きまわり、モノも心もすべてが変化し続けている流動のこの世にあって、牡丹に出会うと釘付けになるのは、そこでは空間があまりにも固定され、不動だからなのだ。

 この句は、ただ、その真実一つだけを詠んでいる希有な作品ではなかろうか。
「咲き定まりて静かなり」
 もう、動きようがない、他に在りようがないから、寂静(ジャクジョウ)である。
 その絶対的な在りようを、他に取り替えようのない言葉で固定している。
「花の占めたる位置のたしかさ」
 確かであるとしか言いようがないのである。

 私たちは、よく「かけがえがない」と言う。
 もはや「いのち」にかかる懸詞(カケコトバ)のようだ。
 それはそうで一分のまちがいもないのだが、現代では、「おいしい」や「うつくしい」などと同じように、右の耳から聞けばそのまま左の耳から出ていってしまいかねない軽さを孕んでしまっている。
 この原因は、もしかして、私たちからある種の〈確かさ〉が失われつつあることに通じているのではなかろうか?
 求め、急ぎ、いつも喘いでいる私たちは、いかなる〈確かさ〉に支えられつつ無常のいのちを生きているのだろう?

 牡丹を眼にすると、眼も意識も、まるで虫ピンで留められたトンボのように固定され、眼のレンズはただちにシャッターを切り網膜の裏へ光景を保存する。
 浮薄な自分が、確かに位置を占めている牡丹に立ち止まらせられるのは、重大事だ。
 牡丹は異次元に通じている花である。
 恐ろしくもあり、ありがたくもある。
 強いて会いたいとも思わないが、会えば必ず胸で合掌してしまう。
 牡丹は不思議な花である。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM


 




[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


| 日想 | - | - | posted by hourakuji
<< NEW | TOP | OLD>>